動いて考える

思いついたことを書きます

Self Reference Engine/バベルの図書館/男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋/世紀の発見

 いろいろと作品の名前を挙げたが、要は円城塔のSelf Reference Engineの冒頭を読んで、ボルヘスの伝記集(岩波文庫)に入っているバベルの図書館という短編のことを思い出し、そのあとに男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋のワンシーンについて思い出して考えたことが、磯崎憲一郎の世紀の発見という小説の、佐々木敦による文庫版解説に書かれていることと同じように思える、そんな話だ。ちなみに、Self Reference EngineはプロローグとJapaneseという章、伝記集はバベルの図書館しか読んでおらず、通読できるか分からない。

 

 Self Reference Engineのプロローグ(Writingという副題がついている)は下記の文章で始まる。読んだのは確か8月27日の0時30分ごろ。家路を歩きながらKindleで読んだ。

全ての可能な文字列。全ての本はその中に含まれている。しかしとても残念なことながら、あなたの望む本がその中に見つかるという保証は全くのところ存在しない。これがあなたの望んだ本です、という活字の並びは存在しうる。今こうして存在しているように。そして勿論、それはあなたの望んだ本ではない。

 これを読んで、バベルの図書館のあらすじというか、全体の雰囲気を知っているものなら、真っ先にバベルの図書館のことを思い出すだろう。わたしは、あーこれはボルヘスっぽいなと考えて、そのまましばらく読むのをやめて、バベルの図書館の内容を思い出そうとしていた。そうしているうちに家についてしまったはずだ。

 バベルの図書館は、26個あるアルファベットを組み合わせてできるすべての文字列が記載された本が並べてある無限大の図書館がある、そういう内容だったと、その時は思ったが、確認する気にはならず、8月30日の13時ごろにやっと読んだ。自分の考えたところに関連しそうなところをかいつまんで引用する。

 

……図書館は、その厳密な中心が任意の六角形であり、その円周は到達の不可能な球体である。

 

 五つの書棚が六角の各壁に振りあてられ、書棚のひとつひとつにおなじ体裁の三十二冊の本がおさまっている。それぞれの本は四百十ページからなる。各ページは四十行、各行は約八十の黒い活字からなる。 

第一に、図書館は永遠を超えて存在する。 

……これらの例示のおかげで、ある天才的な司書が図書館の基本的な法則を発見した。この思想家のいうには、いかに多種多様であっても、すべての本は行間、ピリオド、コンマ、アルファベットの二十五字という、おなじ要素からなっていた。また彼は、すべての旅行者が確認するに至ったある事実を指摘した。広大な図書館に、おなじ本は二冊ない。彼はこの反論の余地のない前提から、図書館は全体的なもので、その書棚は二十数個の記号のあらゆる可能な組み合わせ――その数はきわめて厖大であるが無限ではない――を、換言すれば、あらゆる言語で表現可能なもののいっさいをふくんでいると推論した。いっさいとは、未来の詳細な歴史、熾天使らの自伝、図書館の信頼すべきカタログ、何千何万もの虚偽のカタログ、これらのカタログの虚偽性の照明、真実のカタログの虚偽性の照明、バジリデスのグノーシス派の福音書、この福音書の注解、この福音書の注解の注解、あなたの死の真実の記述、それぞれの本のあらゆる言語への翻訳、それぞれの本のあらゆる本の中への挿入、などである。 

 バベルの図書館の全貌は、わたしが思い出したものとあまり差異はないように思える。ただ、全貌しか覚えていなかったために、図書館のどこかに所蔵された予言の書を求めて繰り広げられた争いや、「他のすべての本の鍵であり完全な要約である、一冊の本」を読んだことによって神に近い存在となった司書がいるという迷信がある、そのような図書館にまつわる魅力的な挿話の数々は忘れていた。

 わたしがバベルの図書館のことを思い出して考えたことは、もし本当にこの図書館が存在するとしたら、作家とは何者なのか、ということだ。この考えのあと、男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋のワンシーンを思い出した。この作品には陶芸家が登場して、その陶芸家が、土をじっと見ていると、器のかたちが浮かび上がってくる、それを見つけるのが陶芸家だ、みたいなことを言っているのだ。時間は覚えていないが、Self Reference Engineの冒頭を読んだ時と記憶が地続きで、確かシャワーを浴びていたから、8月27日の1時ごろではないだろうか。

 これは8月30日の0時45分くらいに改めて内容を確認したところ、物語の序盤、京都で寅さんが知り合った人間国宝の陶芸家である加納作次郎が、寅さんとの宴席でこんな発言をしていた。

土に触っているうちにぃ、自然にかたちが生まれてくるのや。こんなかたちにしよかぁ、あんな色にしよかぁ、ってこれは頭で考えているのとは違う。自然に生まれてくるのを待つのや、なぁ? けどぉ、その自然がなかなか難しい。 …… あのなぁ、こんなええもん作りたいとかね、人に褒められよぉってのは、ほなこんなん考えているうちは、ろくなもんはできんわ。うぅん……作るでない、これ掘り出すねん。土の中に、美しいもんがいてなぁ、出してくれ、はよ出してくれ、って言って、泣いてんねん。 

 思い出したときは標準語で、弟子に向かってこの発言をしていたと思っていたのだが、実際は酒の勢いで、なかば管を巻くように寅さんに対して話しかけていて、こんなこと素人に言ってもしょうがないだろ、と思っていたら、寅さんもその話の最中に眠くなっていて、女中のひざの上でゴロニャンしていた。そして一番思ったのはしゃべりかたの癖が強い。

 このシーンを思い出して考えたのは、小説を書くということ、もっと広くいうと文字を使った表現の諸活動は、バベルの図書館のどこかに所蔵されている小説を探しに行くようなもので、作家とはそういう存在なのではないのか、ということだ。陶芸家にとっての土は、小説家にとってのバベルの図書館に対応する。陶芸家が土を触るうちに器のかたちが自然と出来上がるように、小説家は言葉の組み合わせを試行錯誤しながら、バベルの図書館に所蔵されている小説へとたどりつく。

 小説をわたしたちが読むとき、本として完成された状態でしか読まないがゆえに、小説は作者の頭の中に物語の初めから終わりまでがあらかじめ入っており、それが文字に起こされているものだ、そういうイメージが一般的にはあると思う、少なくともわたしはそうだった。

 しかし、その一般的と思えるような方法を取らずに小説を書いている人間が、わたしの知っている限りで一人いて、その人の名前を磯崎憲一郎という。

 磯崎憲一郎は、冒頭の一文を思いつくと、全体の設計図を作らないまま、本人曰く「その冒頭の一文の推進力」で次の一文、そのまた次の一文を書き連ねていき、それが最終的に小説になるというスタイルをとっている。加納作次郎と同じような方法で(加納作次郎は物語の登場人物なのだけど)小説を書いていると言っていい。

 このような考えをしばらく頭の中でなめつづけていたのだが、8月29日の21時ごろに磯崎憲一郎の「世紀の発見」をパラパラめくっていたら、佐々木敦が解説で、磯崎憲一郎の小説の源となる冒頭の一文についてこんなことを書いていた。

当然ながら、ここですぐに生じる疑問は、ならばその冒頭の一文は何処からやってくるのかということになるだろうが、これについてはこんな返答だった。

それは……、突然思いつくとしか言いようがないです。たぶん一行目は常に考えているんですよ。普段も意識せずに考えているんでしょうね。それが強度があるかどうかというのは書き始めてみないと分からない部分はあるんですけど。一行目がこれなら書ける、っていうのはだんだん分かってきましたね。小説を書いている最中ではない時には、いつもそれを考えているんだと思います。

重要なことは、実のところ磯崎憲一郎は、「いつもそれを考えている」ことによって「突然思いつく」という一行目と、全く同じようにして、二行目以降も書き継いでいくのだということだ。それは、自分という存在を総動員して、自分を超える小説を創造していくこと、世界から彫像を切り出すようにして、小説を発見していくということだ。 

 ここでいわれていることは、わたしがここまで書いてきたこととあまり変わりがないように思える。特に「世界から彫像を切り出すようにして、小説を発見していく」という言葉を見てうれしくなった。そして、なんとなく思うのは、作家はみな、程度の差はあれど、磯崎憲一郎のような書き方をしているのではないだろうか。例えば物語中の登場人物が勝手に動き出すという言説は、磯崎憲一郎の書き方と近いものを感じる。彼の書き方は、自分の意思で文章をコントロールしているのではなく、逆に小説にコントロールされるような書き方であり、それは登場人物を作家がコントロールできなくなるのと同種だからだ。

 この小説の文庫版は2012年の5月10日が初版だから、解説が書かれたのはそれより前である。佐々木敦がこのことを考えたのはそのさらに前だろうから、およそ10年前に彼が考えたことに、ようやく自分の認識が追い付いたかたちになる。誰かが自分の思ったことと同じようなことを言っていると、どうせ自分が考えることなんてもうすでに誰かが考えているんだから、何やったって無駄だ、そんな風にふてくされていた時期が長かったが、最近ようやく、自分の考えたことが過去すでに言われていることならば、その考えはある程度筋のいい、力のあるものなんじゃないかと思えるようになってきた。さらに、自分の発見が過去のだれかの発見が同じものであるならば、その時に感じる喜びも同種のものであるはずで、その喜びで自分は時間と空間を超えて誰かとつながっている。こういう考えは、なんというか元気が出るので、論理的かどうかは別として信じたくなる。

 最後に、わたしは冒頭に書いたなかば直感的に考えたことを、後から振り返って肉付けをしようとしてこの文章を書いたのだが、書きながら思いついたことももちろんあり、それについて書く。まずはバベルの図書館の語り手と思わしき人物が、自分の身元を明かす部分を引用する。

図書館のすべての人間とおなじように、わたしも若いころよく旅行をした。おそらくカタログ類のカタログにある、一冊の本を求めて遍歴をした。この目が自分の書くものをほとんど判読できなくなったいま、わたしは、自分が生まれた六角形から数リーグ離れたところで、死に支度を整えつつある。 

 語り手は、「カタログ類のカタログにある、一冊の本を求めて遍歴した」旅行者であると自分のことを言っている。他にも旅行者は大勢いて、目当ての本を探し求めている。ここまで書いたら言いたいことは分かるかもしれない。この語り手は、作家なのだ。旅行者とは作家のことである。彼らもきっと、自分の読みたいものや知りたいことを発見するようにして書いているはずなのだ。

 きっとバベルの図書館の旅行者には、聖書を最初に作った人間や、聖書を根拠に、神と人間の関係を考えたアウグスティヌスなんかもいたはずで、彼らのような人は図書館で、この世界の真理が書かれている本を探し出そうとしただろうし、二葉亭四迷なんかは日本語で可能な新時代の小説を探していたはずだ。正確に言うなら、バベルの図書館にはアルファペットの文字列しかないから、日本語の書物はないのだけど、日本語や韓国語、アラビア語のように、アルファベット以外の文字を含めた文字列も図書館にはあると考えると、図書館の蔵書の数はもっと増えるだろう。