動いて考える

思いついたことを書きます

目玉焼きベーコントースト/理性/芸術

 開店から半年もたたない、オフィスの近くのパン屋が明日で閉店だという。いつも間食用に買っていたサンドイッチが食べられるのも今日で最後という金曜日の朝だった。にんじんのラペが主役、端役に葉っぱの野菜が添えられ、その間に挟まれたチーズがアクセントになっている百五十円のサンドイッチ。私はこれを毎日欠かさず一つ買っていた。グレーのマウンテンパーカーを着て買いに行った。会社にそんなものを着ていく人間はあまりいないから当然目立つ、いや、私服が許可された会社だからそんなに目立っていないかもしれない。全身をコムデギャルソンで固めた若い女性もいたし、スケボーを背負ってやってくるストリート系の童顔の男、こんな朝から何しに行くんだ、内心馬鹿にしながら眺めていると、歩いていく方向が同じだった。このあたりにスケボーができるような場所、あったっけ。なんて思っているうちに彼は社員証を取り出して会社のセキュリティゲートにかざした。この会社、割と何でもありなのね。システム導入のエンジニアとして出向してから四日目の朝だった。

 それから一年近くたっても相変わらず私は出向先の企業に通勤をしていた。周りには飲食店が乏しく、社食もなんだか飽きてきた。そんなときにできたのがこのパン屋だったのだ。木の温かみが感じられる壁に、天井はコンクリートの打ちっぱなし、このような内装のパン屋は大体おいしい、片手で数えられるほどのサンプル数をもとにした、予測とも呼べないただの勘なのだが、その勘は今回も当たった。

 しかし、ここで買ったものはにんじんラペのサンドイッチ以外には目玉焼きとベーコンのトーストくらいのものだった。なぜか。

 まず、目玉焼きとベーコンのトーストに関してはそれが抜群においしいからだった。塩みの利いたベーコンと食パンのほんのりした甘み、うすく塗られたマヨネーズの程よい酸味と油っぽさ、それらをまとめる卵の白身の柔らかい食感、シンプルながら完成された食べ物である、ただ黄身が半熟だったのはいただけなかった。皿の上で食べる分にはこぼれても気にならないからいいのだが、それがパンの上だと話は別である。薄い膜を割られて自由になった黄色い液体は勝手気ままに白身の上を滑っていき、パンの耳までたどり着き、下に落ちていく。その先がスーツのズボンだったこともあればパソコンのキーボードだったこともある、どこに落ちたって後始末が面倒だ。だから黄身を割るときには、そのあといかにこぼさないかを考えないといけない、食べながら別のことを考えているとき、口に入ったものの味はほとんど感じない。だから黄身を割ってからの目玉焼きベーコントーストの味を私はほとんど覚えていない、というか知らない。黄身をどうにかすすり終わった後の、口の中のとろんとした感じは覚えている、そして黄身にぬれたトースト、これはまた非常にうまい。ここでもベーコンの塩みがいい仕事をしている。この黄身を食べる前と後のおいしさの記憶だけでわたしはそれを繰り返し買っていた。売り切れていることも多く、私と同じ気持ちを味わった人も多いのだと思う。

 しかし、売り切れていないときでも手を伸ばさないことがあった。このトースト一枚が呼び水となり、食欲が暴走することが多々あったからだ。もともとパン屋には間食用ににんじんラペのサンドイッチを買いに行っていた。だからきっと店員は私のことを「にんじんラペサンドの若者」と呼んでいただろう。いや、「にんじん」だったかもしれない。それとも、「目玉焼きベーコントーストがないとがっかりする人」か。「がっかりベーコン」とかかも。そんな風にあだ名をつけられるのが嫌だったので、たまにサーモンサンドを買ったりした。その時には「にんじんの皮を被ったサーモン」、そう呼ばれているかもしれない…… キリがないのでこの辺にしておくが、でもきっと何かしらのあだ名をつけているに違いない。小売店で働いている人、その辺いかがでしょうか。ちなみにサーモンサンドもとてもおいしいのでおすすめです。閉店してしまうのでこれももう食べられない。

 とにかく、七階の食堂まで行ってサンドイッチを食べに行く時間は、すでに太陽が置き土産みたいなオレンジ色の光を空に残して、街を囲む山々の間に沈んでいくころだった。そんな時間に帰れると何かに間に合ったような気持になったのだが、それがいつのことだったか覚えていないくらいに、夕暮れ時に帰れることは非日常だった。きっとほとんどの社会人がそうなのだが。

 どんどん話がわきにそれていくが、要するに私はそのパン屋に朝ご飯を買いに行っているわけではない。朝はお腹が空かないし、なんなら昼になってもあまり空かない、ただ、脳が疲れて何か食べたくなるから、昼飯を食べている。この、脳が欲するというのが実に厄介で、空腹はある程度我慢できるものだけれど、脳が食事を欲しているときは、それが空腹時であれ満腹時であれまず我慢ができない。仮にできたとしても、何時間後かに過食という大きな反動となって返ってくる。私が今この文章を書いているいまは二〇二〇年四月二五日午前一時ちょうど、すでに夜ご飯を終えてから三時間くらいが経過しているが、この三時間くらいわたしはずっと何か食べたくて、それをごまかそうとして、旅番組を食べたり、いや、見たり、半身浴をしたり、本を読んだりし、最終的にこの文章を書いている。

 脳が食べ物を欲するときは基本的に疲れているときなのだが、おいしそうなものを食べた、いや、見つけたときにもそれは起こる。目玉焼きベーコントーストを見つけてしまった時、全然お腹は空いていないのに、なぜか強烈にそれを欲している自分がいる。食べてなるものか、そういう克己心みたいなものが一気に吹っ飛び、もはや目玉焼きベーコントースト以外のことが考えられなくなる。何かそこに特別な引力が働いているかのように吸い寄せられ、トレーの上にトーストを乗せてしまう。ひどいときには朝起きた瞬間からトーストのことを考えていている。電車の中で開いた本の内容も全く頭に入ってこない。○○のことで頭がいっぱいという状態はこのことを言うのかもしれない。頭のメモリ容量のほとんどを目玉焼きベーコントーストに持っていかれ、クラッシュ寸前、他のことをやる余裕がないといった感じだ。いまなら、計算が膨大かつ複雑なあまり、時々ピタリと活動を止めてしまうExcelの気持ちが分かる。売り切れていてほしいと願いつつ店内に入ると、そういうときに限って出来立てを店員が持ってきたりする。サンドイッチよりも先にそれを手に取る。

 自分が決して望んでいないことを、絶対にダメだと思っていることを、実際にやってしまうとき、何か自分というものの存在が根本から揺らぐような感じがする。なんというか、自分というものが二つに分裂している感じだ。お腹が空いていないのだから食べてはいけない、これは理性からくる発想だと思う。理性は基本的に衝動や欲望を抑える方向に働くものだから、ひとまずそういう理性的な自分がいるといえる。

 すでに書いてしまったが、この理性的な自分と対立するのが、欲望に忠実な自分だ。食べたい、セックスがしたい、眠りたい、このように書くと人間の三大欲求を思い出すが、欲求と欲望は違う。必要な量を摂取したら次に必要になるまでは息をひそめているのが欲求だが、必要な量を超えてもなおあふれてきてしまうものが欲望だろう。お金も必要な分を超えて欲したらそれは欲望の領域になるだろうし(もっとも、いくら必要なのか、明確な基準がないゆえに、あればあるだけいいという発想になってしまうのが怖いところなのだが)、お酒やたばこなんてそもそも生きるためには必要がないのだから、少しでも欲せばそれは欲望といえるだろう。生命を維持するために必要な活動以外はすべて欲望と呼んでもいいのかもしれない。このような文章を書いて、ブログに投稿したりするのも欲望のなすところなのだろう。私は書くことを通じて今の自分の身体に何が起きているか知りたいし、あわよくばそれが読まれたいと思っている。生命活動を維持するのに全く必要のないことだ。「芸術がなければ生きていけない」という言葉をたまに聞くが、あまり好きではない。なくても生きていけるのになぜそうした活動に惹かれてしまうのか、その逃れがたさを考えなければならないと思うのだが、この言葉はそこから逃げていくもののような気がする。このことを考えるにあたって、保坂和志の「書きあぐねている人のための小説入門」に、

 

哲学は、社会的価値観や日常的思考様式を包括している。小説(広く「芸術」というべきだろうが、いまはあえて「小説」とします)も、社会や日常に対して哲学と同じ位置にあり、科学も同じ位置にある。つまり、哲学、科学、小説の三つによって包含されているのが社会・日常であって、その逆ではない。

だから小説は日常の思考様式そのままで書かれるものではないし、読まれるべきものでもない。日常が小説のいい悪いを決めるのではなく、小説が光源となって日常を照らして、普段使われる美意識や論理のあり方をつくり出していく。

(p57)

 

 

というようなことが書いてあって、これがとっかかりとして頭の中にしばらくあるのだが、まだうまく自分の言葉にできない。

話を戻すと、ここまで書いて、私は欲望についての話しかしていないのに、なぜ衝動という言葉を並列させたのか、疑問に思った。欲望と衝動は同じものなのだろうか、いや、同じものであるならばわざわざ並列させる必要がない。何かが違うのだが。その「何か」とは何なのか。

〈つづく〉