動いて考える

思いついたことを書きます

2021/9/24 サーフィン/カラマーゾフの兄弟

 小田急藤沢線藤沢行きの快速電車の中でカラマーゾフの兄弟を読んだ。グルーシェニカがカテリーナに、ドミトーリーをもてあそんだことを告白し、カテリーナが激昂するあたり。

 

 この小説に出てくる人間はだれもかれもが過剰だと、いまのところは思っている。すべてのことに対して120%の力でぶつかっていき、相手はおろか自分も砕け散るようなことを、みんなが繰り返している。

 「~に違いない」「~のはずだ」のような断定口調が目立つ。そして、自分について話すとき、「自分は~であることをやめられないんだ、どれだけあがいてもこうなってしまうんだ」というような運命論的なことを言っているように聞こえる。普段の生活だったら自己弁護に聞こえかねないような言葉だが、彼らが発するものは自己弁護には聞こえない。最初こそことばの刃で自分の皮膚を撫で、周りからの慰めを期待するような狡さが垣間見えるのだが、彼らはその刃をどんどん差し込んでいき、やがて自身のからだを貫通させてしまう。彼らの痛ましいほどの過剰さがなせる業だと思う。

 集中力が切れたので車内を見回した。
 これから海へ向かうのだろう、ごきげんな服装の女の子が目に留まった。茶色のキャップ、白Tシャツ、生成りガウチョパンツにはジーンズっぽい刺繍が施してあった。肌は陽に少し灼けていた。肌の色に合うトーンの眉毛が綺麗に描かれている。眉毛は細すぎもせず、太すぎもせず。
 となりに座っていた女の人はスマホでゲームをしていた。画面の中で、シュッとした男の子が大剣で敵をなぎ倒していた。その人が席を立つと、入れ替わりでゲームをしている男の人が隣に座った。ドラゴンクエスト系のゲームだった。もう一方の隣に座る人はなろう系の小説っぽいものを読んでいた。アイテム、ギルドといった単語が見えた。
 ふたつかみっつ隣の席で仕事っぽいことをしている人がいて、写真をイラレで加工していた。写真はシャケの切身のようにも見えたし、パワーストーンみたいな、高価な石にも見えた。歯の化石のようにも見えた。

 藤沢駅で友人と合流。
「大学のときはここに○○もいたんだよなー」
 会って早々、友人がそんなことを口に出した。
 わたしと友人と○○の三人で、大学時代はよくアウトドアに出かけていた。○○はわたしたちの全然知らない人と結婚し、性が変わっていた。わたしと友人は一時期結婚しそうになった彼女がいたが、結局別れた。わたしと友人は○○のことが好きだった。

 鵠沼海岸駅を降りて、住宅街を抜けた。海に近い建物はどこに行っても白が基調で、太陽の光を浴びるとあたりの空気までも白く輝き、全体的に爽やかな印象になる。空には雲一つなかった。

 サーフィンショップにたどり着いて、ウェットスーツに着替える。友人は三回目らしかったが、自分よりウェットスーツの着替えが早かったわけではなかった。
 インストラクターの指導のもと、板に乗る練習をした。
 腕を胸のあたりにつけ、上半身を上げる。できたスペースに足を潜り込ませるようにして立つ。からだは横に向けたまま、顔だけ前を向く。言語化するのに数十秒かかるこの動きは、じっさいになされると5秒もかからない。

 サーフィンショップを出て大きな道路を渡ると、海が見えた。海水浴の客はおらず、サーファーたちで溢れかえっている。
 動きの流れを言葉で憶えても、からだはまったくその通りに動いてくれない。板の上に立ってすぐにバランスを崩すことがしばらく続いた。友人は2,3回目くらいで浜にたどり着いていた。三回目というのはどうやら本当のようだ。

 インストラクターのアドバイスをもとに、からだのひとつひとつの動きを固定させ、どうにか立つことができた。乗り始めて15分くらい経っていた。平均より少し早いくらいと言われた。やったね。
 板の上から立ち上がるときの私の動きを、言葉にすることできない。立とうと決めてから実際に立つまでの間、言葉なんか頭の中に一つも浮かばず、立とうとする動きだけがあった。さきの言葉通りに自分が動けているのかなんて全く分からない。とにかく立とうとして、じっさいにからだが動いた数秒があって、立てた自分がいた。それが楽しかった。

 腰をかがめてバランスをとるようにしてからはからだも安定して、周りを見る余裕もできた。男の人はだれでもかっこよく見えたし、女の人は誰でもきれいに見えた。
 わたしたちのすぐ近くでは女の子の二人組が遊んでいて、経験者っぽい子が初心者っぽい子に指導をしていた。初心者っぽい子を板の上に乗せ、波がやってくると経験者っぽい子は「こげ!」と大きな声を出した。初心者っぽい子は手で水をかきはじめた。「立て!」と経験者っぽい子が叫ぶと、初心者っぽい子は立った。そのまま倒れてしまうと経験者っぽい子はハッハッハと大きな声で笑い、波に乗れると経験者っぽい子はヨシと小さくつぶやいた。わたしとインストラクターもこの二人のように見えているのだと思った。

 サーフィンに限らず、スポーツをやることによってわたしはかなりの充実感を得られる。からだを動かすこと、スポーツがうまくなることは理屈抜きで気持ちがいい。スポーツをしているあいだ、悩みや考え事はどこかにとんでいっていてしまい、残るのはからだと快感だけだ。カラマーゾフの兄弟たちは、スポーツをやるのだろうか。やっていないのだとしたら、わたしは彼らにやることを勧めるかもしれない。彼らの何事に対しても120%でぶつかっていく過剰さは、スポーツをすることによって中和されるのではないか。彼らが生きていく上で抱えている悩みは、スポーツをすることによって相対化され、もっと気楽になれるのではないか。どれだけこの世がつらくて、嫌なものでも、スポーツをやっているあいだの快感は確かなものとしてある。そんなことを、真面目に思った。

 レッスンが終わってショップへと戻っていく途中、友人が「次は○○も誘おうか」と言ったので、誘おう、と返した。

 

 

Self Reference Engine/バベルの図書館/男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋/世紀の発見

 いろいろと作品の名前を挙げたが、要は円城塔のSelf Reference Engineの冒頭を読んで、ボルヘスの伝記集(岩波文庫)に入っているバベルの図書館という短編のことを思い出し、そのあとに男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋のワンシーンについて思い出して考えたことが、磯崎憲一郎の世紀の発見という小説の、佐々木敦による文庫版解説に書かれていることと同じように思える、そんな話だ。ちなみに、Self Reference EngineはプロローグとJapaneseという章、伝記集はバベルの図書館しか読んでおらず、通読できるか分からない。

 

 Self Reference Engineのプロローグ(Writingという副題がついている)は下記の文章で始まる。読んだのは確か8月27日の0時30分ごろ。家路を歩きながらKindleで読んだ。

全ての可能な文字列。全ての本はその中に含まれている。しかしとても残念なことながら、あなたの望む本がその中に見つかるという保証は全くのところ存在しない。これがあなたの望んだ本です、という活字の並びは存在しうる。今こうして存在しているように。そして勿論、それはあなたの望んだ本ではない。

 これを読んで、バベルの図書館のあらすじというか、全体の雰囲気を知っているものなら、真っ先にバベルの図書館のことを思い出すだろう。わたしは、あーこれはボルヘスっぽいなと考えて、そのまましばらく読むのをやめて、バベルの図書館の内容を思い出そうとしていた。そうしているうちに家についてしまったはずだ。

 バベルの図書館は、26個あるアルファベットを組み合わせてできるすべての文字列が記載された本が並べてある無限大の図書館がある、そういう内容だったと、その時は思ったが、確認する気にはならず、8月30日の13時ごろにやっと読んだ。自分の考えたところに関連しそうなところをかいつまんで引用する。

 

……図書館は、その厳密な中心が任意の六角形であり、その円周は到達の不可能な球体である。

 

 五つの書棚が六角の各壁に振りあてられ、書棚のひとつひとつにおなじ体裁の三十二冊の本がおさまっている。それぞれの本は四百十ページからなる。各ページは四十行、各行は約八十の黒い活字からなる。 

第一に、図書館は永遠を超えて存在する。 

……これらの例示のおかげで、ある天才的な司書が図書館の基本的な法則を発見した。この思想家のいうには、いかに多種多様であっても、すべての本は行間、ピリオド、コンマ、アルファベットの二十五字という、おなじ要素からなっていた。また彼は、すべての旅行者が確認するに至ったある事実を指摘した。広大な図書館に、おなじ本は二冊ない。彼はこの反論の余地のない前提から、図書館は全体的なもので、その書棚は二十数個の記号のあらゆる可能な組み合わせ――その数はきわめて厖大であるが無限ではない――を、換言すれば、あらゆる言語で表現可能なもののいっさいをふくんでいると推論した。いっさいとは、未来の詳細な歴史、熾天使らの自伝、図書館の信頼すべきカタログ、何千何万もの虚偽のカタログ、これらのカタログの虚偽性の照明、真実のカタログの虚偽性の照明、バジリデスのグノーシス派の福音書、この福音書の注解、この福音書の注解の注解、あなたの死の真実の記述、それぞれの本のあらゆる言語への翻訳、それぞれの本のあらゆる本の中への挿入、などである。 

 バベルの図書館の全貌は、わたしが思い出したものとあまり差異はないように思える。ただ、全貌しか覚えていなかったために、図書館のどこかに所蔵された予言の書を求めて繰り広げられた争いや、「他のすべての本の鍵であり完全な要約である、一冊の本」を読んだことによって神に近い存在となった司書がいるという迷信がある、そのような図書館にまつわる魅力的な挿話の数々は忘れていた。

 わたしがバベルの図書館のことを思い出して考えたことは、もし本当にこの図書館が存在するとしたら、作家とは何者なのか、ということだ。この考えのあと、男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋のワンシーンを思い出した。この作品には陶芸家が登場して、その陶芸家が、土をじっと見ていると、器のかたちが浮かび上がってくる、それを見つけるのが陶芸家だ、みたいなことを言っているのだ。時間は覚えていないが、Self Reference Engineの冒頭を読んだ時と記憶が地続きで、確かシャワーを浴びていたから、8月27日の1時ごろではないだろうか。

 これは8月30日の0時45分くらいに改めて内容を確認したところ、物語の序盤、京都で寅さんが知り合った人間国宝の陶芸家である加納作次郎が、寅さんとの宴席でこんな発言をしていた。

土に触っているうちにぃ、自然にかたちが生まれてくるのや。こんなかたちにしよかぁ、あんな色にしよかぁ、ってこれは頭で考えているのとは違う。自然に生まれてくるのを待つのや、なぁ? けどぉ、その自然がなかなか難しい。 …… あのなぁ、こんなええもん作りたいとかね、人に褒められよぉってのは、ほなこんなん考えているうちは、ろくなもんはできんわ。うぅん……作るでない、これ掘り出すねん。土の中に、美しいもんがいてなぁ、出してくれ、はよ出してくれ、って言って、泣いてんねん。 

 思い出したときは標準語で、弟子に向かってこの発言をしていたと思っていたのだが、実際は酒の勢いで、なかば管を巻くように寅さんに対して話しかけていて、こんなこと素人に言ってもしょうがないだろ、と思っていたら、寅さんもその話の最中に眠くなっていて、女中のひざの上でゴロニャンしていた。そして一番思ったのはしゃべりかたの癖が強い。

 このシーンを思い出して考えたのは、小説を書くということ、もっと広くいうと文字を使った表現の諸活動は、バベルの図書館のどこかに所蔵されている小説を探しに行くようなもので、作家とはそういう存在なのではないのか、ということだ。陶芸家にとっての土は、小説家にとってのバベルの図書館に対応する。陶芸家が土を触るうちに器のかたちが自然と出来上がるように、小説家は言葉の組み合わせを試行錯誤しながら、バベルの図書館に所蔵されている小説へとたどりつく。

 小説をわたしたちが読むとき、本として完成された状態でしか読まないがゆえに、小説は作者の頭の中に物語の初めから終わりまでがあらかじめ入っており、それが文字に起こされているものだ、そういうイメージが一般的にはあると思う、少なくともわたしはそうだった。

 しかし、その一般的と思えるような方法を取らずに小説を書いている人間が、わたしの知っている限りで一人いて、その人の名前を磯崎憲一郎という。

 磯崎憲一郎は、冒頭の一文を思いつくと、全体の設計図を作らないまま、本人曰く「その冒頭の一文の推進力」で次の一文、そのまた次の一文を書き連ねていき、それが最終的に小説になるというスタイルをとっている。加納作次郎と同じような方法で(加納作次郎は物語の登場人物なのだけど)小説を書いていると言っていい。

 このような考えをしばらく頭の中でなめつづけていたのだが、8月29日の21時ごろに磯崎憲一郎の「世紀の発見」をパラパラめくっていたら、佐々木敦が解説で、磯崎憲一郎の小説の源となる冒頭の一文についてこんなことを書いていた。

当然ながら、ここですぐに生じる疑問は、ならばその冒頭の一文は何処からやってくるのかということになるだろうが、これについてはこんな返答だった。

それは……、突然思いつくとしか言いようがないです。たぶん一行目は常に考えているんですよ。普段も意識せずに考えているんでしょうね。それが強度があるかどうかというのは書き始めてみないと分からない部分はあるんですけど。一行目がこれなら書ける、っていうのはだんだん分かってきましたね。小説を書いている最中ではない時には、いつもそれを考えているんだと思います。

重要なことは、実のところ磯崎憲一郎は、「いつもそれを考えている」ことによって「突然思いつく」という一行目と、全く同じようにして、二行目以降も書き継いでいくのだということだ。それは、自分という存在を総動員して、自分を超える小説を創造していくこと、世界から彫像を切り出すようにして、小説を発見していくということだ。 

 ここでいわれていることは、わたしがここまで書いてきたこととあまり変わりがないように思える。特に「世界から彫像を切り出すようにして、小説を発見していく」という言葉を見てうれしくなった。そして、なんとなく思うのは、作家はみな、程度の差はあれど、磯崎憲一郎のような書き方をしているのではないだろうか。例えば物語中の登場人物が勝手に動き出すという言説は、磯崎憲一郎の書き方と近いものを感じる。彼の書き方は、自分の意思で文章をコントロールしているのではなく、逆に小説にコントロールされるような書き方であり、それは登場人物を作家がコントロールできなくなるのと同種だからだ。

 この小説の文庫版は2012年の5月10日が初版だから、解説が書かれたのはそれより前である。佐々木敦がこのことを考えたのはそのさらに前だろうから、およそ10年前に彼が考えたことに、ようやく自分の認識が追い付いたかたちになる。誰かが自分の思ったことと同じようなことを言っていると、どうせ自分が考えることなんてもうすでに誰かが考えているんだから、何やったって無駄だ、そんな風にふてくされていた時期が長かったが、最近ようやく、自分の考えたことが過去すでに言われていることならば、その考えはある程度筋のいい、力のあるものなんじゃないかと思えるようになってきた。さらに、自分の発見が過去のだれかの発見が同じものであるならば、その時に感じる喜びも同種のものであるはずで、その喜びで自分は時間と空間を超えて誰かとつながっている。こういう考えは、なんというか元気が出るので、論理的かどうかは別として信じたくなる。

 最後に、わたしは冒頭に書いたなかば直感的に考えたことを、後から振り返って肉付けをしようとしてこの文章を書いたのだが、書きながら思いついたことももちろんあり、それについて書く。まずはバベルの図書館の語り手と思わしき人物が、自分の身元を明かす部分を引用する。

図書館のすべての人間とおなじように、わたしも若いころよく旅行をした。おそらくカタログ類のカタログにある、一冊の本を求めて遍歴をした。この目が自分の書くものをほとんど判読できなくなったいま、わたしは、自分が生まれた六角形から数リーグ離れたところで、死に支度を整えつつある。 

 語り手は、「カタログ類のカタログにある、一冊の本を求めて遍歴した」旅行者であると自分のことを言っている。他にも旅行者は大勢いて、目当ての本を探し求めている。ここまで書いたら言いたいことは分かるかもしれない。この語り手は、作家なのだ。旅行者とは作家のことである。彼らもきっと、自分の読みたいものや知りたいことを発見するようにして書いているはずなのだ。

 きっとバベルの図書館の旅行者には、聖書を最初に作った人間や、聖書を根拠に、神と人間の関係を考えたアウグスティヌスなんかもいたはずで、彼らのような人は図書館で、この世界の真理が書かれている本を探し出そうとしただろうし、二葉亭四迷なんかは日本語で可能な新時代の小説を探していたはずだ。正確に言うなら、バベルの図書館にはアルファペットの文字列しかないから、日本語の書物はないのだけど、日本語や韓国語、アラビア語のように、アルファベット以外の文字を含めた文字列も図書館にはあると考えると、図書館の蔵書の数はもっと増えるだろう。

 

目玉焼きベーコントースト/理性/芸術

 開店から半年もたたない、オフィスの近くのパン屋が明日で閉店だという。いつも間食用に買っていたサンドイッチが食べられるのも今日で最後という金曜日の朝だった。にんじんのラペが主役、端役に葉っぱの野菜が添えられ、その間に挟まれたチーズがアクセントになっている百五十円のサンドイッチ。私はこれを毎日欠かさず一つ買っていた。グレーのマウンテンパーカーを着て買いに行った。会社にそんなものを着ていく人間はあまりいないから当然目立つ、いや、私服が許可された会社だからそんなに目立っていないかもしれない。全身をコムデギャルソンで固めた若い女性もいたし、スケボーを背負ってやってくるストリート系の童顔の男、こんな朝から何しに行くんだ、内心馬鹿にしながら眺めていると、歩いていく方向が同じだった。このあたりにスケボーができるような場所、あったっけ。なんて思っているうちに彼は社員証を取り出して会社のセキュリティゲートにかざした。この会社、割と何でもありなのね。システム導入のエンジニアとして出向してから四日目の朝だった。

 それから一年近くたっても相変わらず私は出向先の企業に通勤をしていた。周りには飲食店が乏しく、社食もなんだか飽きてきた。そんなときにできたのがこのパン屋だったのだ。木の温かみが感じられる壁に、天井はコンクリートの打ちっぱなし、このような内装のパン屋は大体おいしい、片手で数えられるほどのサンプル数をもとにした、予測とも呼べないただの勘なのだが、その勘は今回も当たった。

 しかし、ここで買ったものはにんじんラペのサンドイッチ以外には目玉焼きとベーコンのトーストくらいのものだった。なぜか。

 まず、目玉焼きとベーコンのトーストに関してはそれが抜群においしいからだった。塩みの利いたベーコンと食パンのほんのりした甘み、うすく塗られたマヨネーズの程よい酸味と油っぽさ、それらをまとめる卵の白身の柔らかい食感、シンプルながら完成された食べ物である、ただ黄身が半熟だったのはいただけなかった。皿の上で食べる分にはこぼれても気にならないからいいのだが、それがパンの上だと話は別である。薄い膜を割られて自由になった黄色い液体は勝手気ままに白身の上を滑っていき、パンの耳までたどり着き、下に落ちていく。その先がスーツのズボンだったこともあればパソコンのキーボードだったこともある、どこに落ちたって後始末が面倒だ。だから黄身を割るときには、そのあといかにこぼさないかを考えないといけない、食べながら別のことを考えているとき、口に入ったものの味はほとんど感じない。だから黄身を割ってからの目玉焼きベーコントーストの味を私はほとんど覚えていない、というか知らない。黄身をどうにかすすり終わった後の、口の中のとろんとした感じは覚えている、そして黄身にぬれたトースト、これはまた非常にうまい。ここでもベーコンの塩みがいい仕事をしている。この黄身を食べる前と後のおいしさの記憶だけでわたしはそれを繰り返し買っていた。売り切れていることも多く、私と同じ気持ちを味わった人も多いのだと思う。

 しかし、売り切れていないときでも手を伸ばさないことがあった。このトースト一枚が呼び水となり、食欲が暴走することが多々あったからだ。もともとパン屋には間食用ににんじんラペのサンドイッチを買いに行っていた。だからきっと店員は私のことを「にんじんラペサンドの若者」と呼んでいただろう。いや、「にんじん」だったかもしれない。それとも、「目玉焼きベーコントーストがないとがっかりする人」か。「がっかりベーコン」とかかも。そんな風にあだ名をつけられるのが嫌だったので、たまにサーモンサンドを買ったりした。その時には「にんじんの皮を被ったサーモン」、そう呼ばれているかもしれない…… キリがないのでこの辺にしておくが、でもきっと何かしらのあだ名をつけているに違いない。小売店で働いている人、その辺いかがでしょうか。ちなみにサーモンサンドもとてもおいしいのでおすすめです。閉店してしまうのでこれももう食べられない。

 とにかく、七階の食堂まで行ってサンドイッチを食べに行く時間は、すでに太陽が置き土産みたいなオレンジ色の光を空に残して、街を囲む山々の間に沈んでいくころだった。そんな時間に帰れると何かに間に合ったような気持になったのだが、それがいつのことだったか覚えていないくらいに、夕暮れ時に帰れることは非日常だった。きっとほとんどの社会人がそうなのだが。

 どんどん話がわきにそれていくが、要するに私はそのパン屋に朝ご飯を買いに行っているわけではない。朝はお腹が空かないし、なんなら昼になってもあまり空かない、ただ、脳が疲れて何か食べたくなるから、昼飯を食べている。この、脳が欲するというのが実に厄介で、空腹はある程度我慢できるものだけれど、脳が食事を欲しているときは、それが空腹時であれ満腹時であれまず我慢ができない。仮にできたとしても、何時間後かに過食という大きな反動となって返ってくる。私が今この文章を書いているいまは二〇二〇年四月二五日午前一時ちょうど、すでに夜ご飯を終えてから三時間くらいが経過しているが、この三時間くらいわたしはずっと何か食べたくて、それをごまかそうとして、旅番組を食べたり、いや、見たり、半身浴をしたり、本を読んだりし、最終的にこの文章を書いている。

 脳が食べ物を欲するときは基本的に疲れているときなのだが、おいしそうなものを食べた、いや、見つけたときにもそれは起こる。目玉焼きベーコントーストを見つけてしまった時、全然お腹は空いていないのに、なぜか強烈にそれを欲している自分がいる。食べてなるものか、そういう克己心みたいなものが一気に吹っ飛び、もはや目玉焼きベーコントースト以外のことが考えられなくなる。何かそこに特別な引力が働いているかのように吸い寄せられ、トレーの上にトーストを乗せてしまう。ひどいときには朝起きた瞬間からトーストのことを考えていている。電車の中で開いた本の内容も全く頭に入ってこない。○○のことで頭がいっぱいという状態はこのことを言うのかもしれない。頭のメモリ容量のほとんどを目玉焼きベーコントーストに持っていかれ、クラッシュ寸前、他のことをやる余裕がないといった感じだ。いまなら、計算が膨大かつ複雑なあまり、時々ピタリと活動を止めてしまうExcelの気持ちが分かる。売り切れていてほしいと願いつつ店内に入ると、そういうときに限って出来立てを店員が持ってきたりする。サンドイッチよりも先にそれを手に取る。

 自分が決して望んでいないことを、絶対にダメだと思っていることを、実際にやってしまうとき、何か自分というものの存在が根本から揺らぐような感じがする。なんというか、自分というものが二つに分裂している感じだ。お腹が空いていないのだから食べてはいけない、これは理性からくる発想だと思う。理性は基本的に衝動や欲望を抑える方向に働くものだから、ひとまずそういう理性的な自分がいるといえる。

 すでに書いてしまったが、この理性的な自分と対立するのが、欲望に忠実な自分だ。食べたい、セックスがしたい、眠りたい、このように書くと人間の三大欲求を思い出すが、欲求と欲望は違う。必要な量を摂取したら次に必要になるまでは息をひそめているのが欲求だが、必要な量を超えてもなおあふれてきてしまうものが欲望だろう。お金も必要な分を超えて欲したらそれは欲望の領域になるだろうし(もっとも、いくら必要なのか、明確な基準がないゆえに、あればあるだけいいという発想になってしまうのが怖いところなのだが)、お酒やたばこなんてそもそも生きるためには必要がないのだから、少しでも欲せばそれは欲望といえるだろう。生命を維持するために必要な活動以外はすべて欲望と呼んでもいいのかもしれない。このような文章を書いて、ブログに投稿したりするのも欲望のなすところなのだろう。私は書くことを通じて今の自分の身体に何が起きているか知りたいし、あわよくばそれが読まれたいと思っている。生命活動を維持するのに全く必要のないことだ。「芸術がなければ生きていけない」という言葉をたまに聞くが、あまり好きではない。なくても生きていけるのになぜそうした活動に惹かれてしまうのか、その逃れがたさを考えなければならないと思うのだが、この言葉はそこから逃げていくもののような気がする。このことを考えるにあたって、保坂和志の「書きあぐねている人のための小説入門」に、

 

哲学は、社会的価値観や日常的思考様式を包括している。小説(広く「芸術」というべきだろうが、いまはあえて「小説」とします)も、社会や日常に対して哲学と同じ位置にあり、科学も同じ位置にある。つまり、哲学、科学、小説の三つによって包含されているのが社会・日常であって、その逆ではない。

だから小説は日常の思考様式そのままで書かれるものではないし、読まれるべきものでもない。日常が小説のいい悪いを決めるのではなく、小説が光源となって日常を照らして、普段使われる美意識や論理のあり方をつくり出していく。

(p57)

 

 

というようなことが書いてあって、これがとっかかりとして頭の中にしばらくあるのだが、まだうまく自分の言葉にできない。

話を戻すと、ここまで書いて、私は欲望についての話しかしていないのに、なぜ衝動という言葉を並列させたのか、疑問に思った。欲望と衝動は同じものなのだろうか、いや、同じものであるならばわざわざ並列させる必要がない。何かが違うのだが。その「何か」とは何なのか。

〈つづく〉

Before Paris 和訳

(If you're) Starting to trying to be a musician or artist—something like that—because you wanna make money, because you wanna do a job, that's- that's the wrong way.

もし金を稼ぎたいとか、有名になりたいとか、そんな理由でミュージシャンや芸術家みたいなものになろうとしているのなら、それは、それは絶対に間違っている。

 

You have to do this because you love it.

人々が芸術をやらずにいられないのはそれを愛しているからだ。

 

And it doesn't matter if you broke, you still gon' do it. I mean, I go out to jam sessions, and I play regardless of whether I'm getting a check or not.

文無しになったとしても関係ない、なにがあろうと続けていくんだ。たとえばおれがジャムセッションにいくだろ、そこでおれはギャラが出ようと出まいと楽器を弾くんだ。

 

It's-, it's about whether I, uh—you have to love this thing, man!

それはたとえおれが有名に、うーん、とにかく芸術そのものを愛さないといけないんだよ、わかるだろ?

 

You have to love it and breathe it and—It's your morning coffee. It's your food. That's why you become an artist. Art is a mirror of society, you know...

芸術を愛して、一体になるんだ、それは朝のコーヒーみたいなもんだ、三度の飯みたいなもんだ、そうやって人はアーティストになるんだ。芸術は社会のかがみみたいなものなんだからさ。

 

Tom Misch

歌詞の転載元

https://www.google.co.jp/amp/s/genius.com/amp/Tom-misch-before-paris-lyrics

 

 

「いまは僕の目を見て」について -Grape感想その2-

もうこれ以上ないところまで高まったと思える何かが、身体を満たすことがあると思います。

表すために適切な言葉をつかめたら、少しは楽になれると思い、必死に手探りをするのですが、大抵はむなしい空振りに終わってしまいます。

それはたくさんのものからできているようで、しかもそれぞれがどのくらいの割合で入っているかも全然わからないからです。

そんなもどかしさなどは露ほども知らない、得体のしれないそれは、アルコールの作用にも似た熱を発生させて身体中を駆け巡り、やがて破裂して身外に流れ去るのです。

怒声や涙は、それが流れ去る時にとる形の一つなのかもしれません。

 

だからこそ、その何かを表す言葉をつかめたときの感動もひとしおです。

さらにその言葉が他人に理解され、共感を呼ぶようなことがあれば、空でも飛べそうな高揚感を得られることもあります。

 

この感動が、私たちが言葉を使うことをやめない大きい理由の一つであると思います。

 

小出祐介はそんな、私たちが他者と言葉を用いてコミュニケーションをすることの苦しみと喜びを、巧みな比喩で語ってくれます。

 

言葉は穴のあいた 軽い砂袋さ

君まで届ける前に かなりこぼれてしまう

中身をこぼさぬように 隣に座ったら

いつもよりも多く 手渡せる気がした

 心と心つなぐ ケーブルがあるなら

この悩みはなくなって ただ、歓びも失せてく

 

彼がつむいだ言葉の連なりに、安堵した人は多いと思います。

私ももちろんその一人です。

自分では上手く言葉にできなかったもやもやの、その答えを受け取った安心感は、当たるとうわさの占い師がもたらしてくれるものと同じなのでしょうか。

行ったことがないので分かりませんが、彼の巧みな比喩には、言葉によるコミュニケーションの難しさとよろこびについて、明確なイメージを与えてくれる力があります。

 

ところが、彼は巧みな比喩を披露するだけでは終わらないのです。

 

君を美しいと感じた そのときにそのまま伝えたら

なんて思われるだろう 臆病になってしまう

きっと君にあげたいものは 喩えられるようなものじゃない

 

一聴すると、君に対する切ない気持ちを歌っているように思われるこの文章。

 

しかし、「喩えられるようなものじゃない」のは、「君にあげたいもの」だけではなく、「言葉」そのものだと彼はこの歌詞で言っているように思うのです。

 

「たとえる」という言葉を使う時、私たちは基本的にひらがなを用いるか、漢字をつかうとしても、「例」という言葉をあてがうと思います。

一方で、彼は用いた漢字は「喩」、比喩という言葉に使われるものです。

なぜ彼はあえてなじみのない「喩」という漢字を用いたか。

 

それは、曲中の比喩表現と、「喩えられるようなものじゃない」という歌詞のつながりを持たせるためだったと私は思います。

そうすることによって、「言葉」と「言葉によるコミュニケーション」について描いた自分自身の言語表現すらも、何かを完璧に伝え得るものではないという自戒のようなことを彼は歌ってもいるのです。

 

ともすれば、BaseBallBearらしいサウンド、歌詞と評価されそうなこの曲に、自らの比喩表現も含めた、言語にまつわるエトセトラの不完全性を提示するような「仕掛け」を置く。

そこに、例えば「スクランブル」という楽曲で表現された、彼の「分かりやすさ」に逃げない姿勢を読み取ることができると思います。

 

悪い人がプレゼントを抱え家路を急いでいる

善い人がはみ出した下心で電話をしているよ

 

少女は甘いものと光もの想像して歩く

少年は小動物と星空を胸に駆けてく

 

まじわる光と影

僕は真ん中を行って

かさなる光と影

その向こうにある普通を感じたい

 

 以上のようなことを考えたあとで、私には一つの疑問が残りました。

 

きっと君にあげたいものは 喩えられるようなものじゃない

胸の奥で渦巻いている ありったけの気持ちをすべて

 

彼はこの曲で、君にあげたいありったけの気持ちがあり、それを言葉を用いて表現することはできないのだ、ということを歌っているのだと思いましたが、それをどうしたら伝えられるかについて、明確に言ってはいません。

下記のような歌詞を眺めることに留まると、目で語る、身体を寄せ合うというような、身体性のあるコミュニケーションで伝えられるのではないかと考えているとも言えます。

 

中身をこぼさぬように 隣に座ったら

いつもよりも多く 手渡せる気がした

これまで生きてきたこと 僕を形作ってきたことも

わからなくたっていいから いまは僕の目を見て 

 

これだけでも、そこそこ耳通りがいい話にはなると思うのですが、より掘り下げて考えるための鍵は、目の前、というより耳の前にあるように思われます。

私はそれを、もう少し遠いとこから見つけたのですが。

 

頭の中を録画する機材があるなら 

広がる景色も上映できるだろう

だけどそれじゃつまらないから

伝えられる言葉と

メロディー探してる

「愛してる」「さよなら」じゃなく

自分の心の 一切合切 全部全体

伝えたいから 歌ってるんだBaby

 

もうリリースが9年も前になる「歌ってるんだBaby〔 1+1 = new1 ver〕」という曲で彼は、自分の気持ちを伝える「言葉」と「メロディー」を探していると言っています。

自分のありったけを伝えるために、言葉だけでなく、音も探していると言っているのです。

 

「いまは僕の目を見て」の歌詞でも言っている通り、言葉は何かを伝える手段としては限界があるものです。

そして、その限界を補うものとして、彼は音、すなわち音楽も使いたいといっているのだと思います。

 

例えばかき鳴らされる轟音のギター、身体の奥に響くドラムの音や、管弦楽器のアンサンブルが奏でるハーモニーから、気持ちの高ぶりを感じた人は多くいると思います。

しかし、音楽がもたらしたその高揚感が何であるのかを、うまく説明できる人はいないのです。

 

言葉以外から受け取った何かを、言葉で表現するのは、不可能に近いと思われます。

しかし、このことは、言葉で伝えられない何かは、言葉以外を表現すれば伝えられるかもしれないということと同義です。

 

つまり、「いまは僕の目を見て」で鳴っているギター、ドラム、ベース、これらの音の組み合わせこそが、ありったけの気持ちを伝える手段の一つになりえると、彼は言葉にせずとも発信しているのではないでしょうか。

 

彼はもう、手応えばかりを求めて、言葉を重ね続けることはしないのだと思います。

 


Base Ball Bear - いまは僕の目を見て

 

 

歌ってるんだBaby. [1+1=new1 ver.]

歌ってるんだBaby. [1+1=new1 ver.]

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スクランブル

スクランブル

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小出祐介の言葉と世界 - Grape感想その1-

待ちに待ったBase Ball Bearの新EP、「Grape」の配信が開始された。

 

産まれた子供が小学校を卒業する程度の間、彼らを追っている身としては、「秋」をテーマにした楽曲が出てきたことに、失礼ながらも子供の変化していく様を目の当たりにした親のような感慨を覚える。

 

一方でその内容は、しっかりとBase Ball Bearらしさが凝縮されたものになっていると思う。

 

サウンド面について私が語れることはないに等しいので、

「『いまは僕の目を見て』の「Short Hair」を彷彿とさせるようなギター、Cメロからラスサビへの展開が最高。柔らかいエモさが体に沁みてくる感じがたまらん。『Grape Juice』のリズム隊最高。やっぱり『光源』あたりから相当カッコよくなってる。ライブで踊ってる自分が見えるわ。」

くらいにとどめておきたい。

 

私が今回考えたいのは、ギターボーカルの小出祐介が紡ぎだす詩世界についてだ。そこにもBase Ball Bearらしさ(というよりも小出祐介らしさ)が現れている。

それは、対極に位置する二つの言葉やものを歌詞中に配置したり、二つの中央に存在するような言葉を用いたりすることによって、時には両極端なものが同時に存在することのおかしみや矛盾を、時にはそのどちらでもない曖昧な状態について描いている点である。

 

例えばリード曲「いまは僕の目を見て」の歌詞。

 

「言葉は穴のあいた 軽い砂袋さ

君に届ける前に かなりこぼれてしまう」

 

「心と心をつなぐケーブルがあるなら」

 

というような比喩表現を使用したかと思えば、

 

「きっと君にあげたいものは 喩えられるようなものじゃない」

 

と自らの言葉を否定する言葉が唐突に現れる。 

 

他にも「セプテンバーステップス」の

 

「ベイサイド どしゃぶりの

二人じめの 夜の匂いに

指置いた 拾ったライター

点いてしまった 赤色 手持ち花火」

 

という歌詞では、水(ベイサイド、どしゃぶり)と火(ライター、手持ち花火)を同じ光景の中に配置している。水の方は、海と雨、という自然、雄大さを想起させる言葉を使用している一方で、火の方は人工、小ささを想起させるような言葉を使用している。

水/火、自然/人工、大/小という3つの異なる対極を用いた言葉たちで描き出された光景は、あり得るかあり得ないか分からないギリギリの幻想という感じがしてとても好きです。

 

このような「対極、もしくはその中央」というモチーフは、小出祐介が歌詞を書く上で、ある時点までは無自覚に、ある時点からは自覚的に用いているもので、彼自身の本質なのではないかと私は考えている。

 

初期楽曲で言えば、「SAYONARA-NOSTALGIA」の「今日も普通がいいや」、「4D界隈」の「気持ちが良すぎて 気持ちが悪い」という歌詞があてはまるだろう。

 

また、曲単体だけではなく、アルバムの構成を見渡してみてもそれは透けて見える。

 

「C」においては、「DEATHとLOVE」~「SHE IS BACK」の流れでは歌詞の端々から「生と死」という二項対立が想起される。「ラストダンス」で死んだ彼女が「SHE IS BACK」でよみがえるというオチ付きである。

「(What is the) Love & Pop?」では、ラストトラック「ラブ&ポップ」で自己受容をし、孤独を乗り越えようとする姿勢を見せる一方で、隠しトラック「明日は明日の雨が降る」では究極的な自己否定をするという両極的な展開となっている。

 

そして、このモチーフを自覚的に用いて、小出祐介の世界観を見事に作品に落とし込んだある時点、それはアルバム「29歳」であると私は考えている。このアルバムの曲の配置、歌詞の意味についてはまた別途考えたいが、先ほど述べた「両極、もしくはその中央」というモチーフを「両極端のどちらでもないもの、その曖昧に向き合う」という自身の生き方に昇華させ、それをこの作品でいったんは表現しきっているといえるだろう。

 

しかし、表現者の本質的な部分は、いったん描ききったとしても何度でも立ち現れるものである。

 

小説を例にとると、村上龍は「既存の社会システムへの疑問、抵抗」をテーマにした作品をいくつか書いている。デビュー作の「限りなく透明に近いブルー」は、アメリカの支配から逃れたような雰囲気の当時の日本社会に米軍基地が存在している矛盾を描いた側面を持っているし、「愛と幻想のファシズム」、「希望の国エクソダス」などは崩壊しかけた社会システムを破壊し、新たな世界を作り上げようとするストーリーだ。

 

翻って「Grape」中の楽曲群においても、それは同じことである。両極に存在するものをあえて同時に使い、そこから見える世界を描こうとしているはずだ。

 

次は今述べたような観点から、「いまは僕の目を見て」の歌詞について考えたい。

 


Base Ball Bear - いまは僕の目を見て

 

 

音楽を聴く喜び

「八月」を初めて聴いたときの違和感と、2回目に聴いたときの衝撃が忘れられない。


People In The Boxを聴き始めたのは彼らの曲と同名の小説が芥川賞を取ったことがきっかけ、というよりは、このエピソードを聞いてPeople In The Boxが好きだと言っていた先輩を思い出してそれを懐かしく思ったのがきっかけだった、のか。


直接的な理由は曖昧なのだけど私はとにかくApple Musicでこの曲を聴きだした。
聴いていると沢山の色が浮かび上がってくる曲で、カジュアルに言うとものすごくハマった。めっちゃ聴いた。

そこから先述の先輩に連絡を取り、おすすめの曲を教えてもらった。先輩は私がこのバンドを聴き始めたことをすごく喜んでいた、らいいなと思う。

 

「八月」はそのおすすめの曲のうちの一つだった。


こう書くと、初めて聴いたときは、じっくり味わうために静かな部屋でゆっくりと聞いていたのかと思うかもしれないけれどそうではなくて、通勤中に漫然と聴いていた。さらに言うと、聴いていた時はそれが八月という曲であることは知らず、曲が終わった後、なんだこの曲は、と思って再生履歴を遡ったら、八月という曲だった。

それで、私が違和感を覚えた部分はこの曲のアウトロ部分だった。

 

愛も正しさも一切君には関係ない
君は息をしている


という歌詞の後、アウトロが始まる。アコースティックギターが紡ぐメロディが体感で十何秒か続いた後、余韻を残して終わり、ベースとドラムの音が終わった。

 

それにしても、字数にして23文字のこの言葉は、このアルバムをまとめあげる素晴らしい歌詞だと思う。

 

この曲が収録されているアルバムのタイトルは「Ave Materia」。直訳すると、「こんにちは、物質」という意味だ。ここでいう物質とは「肉体」という意味に置き換えてもいい。

 

というのも、このアルバムでは、精神としての人間と、肉体としての人間が二項対立的に描かれるからだ。

 

アルバムに収録されている曲の歌詞を見ていると、1曲目から8曲目までは、精神活動を営む人間の暗がりを描いているように思える箇所がちりばめられている。

 

そして9曲目が「さようなら、こんにちは」という曲なのだけど、この曲は、1~8曲目のまとめとして、精神としての人間が極限まで行ってしまった世界の光景を描いているように思えた。

 

「さようなら、こんにちは」の歌詞の一部を切り取ってみる。

 

"私の聖域にはいっておいで

土を踏みしめて なみだを垂らして

意味もなくきみが笑う

<さよなら、物質>

意味もなくぼくも

窓を開け放って 風邪を誘い込んだ

屋根を吹き飛ばして

すべて撒き上がるよ

窓を開け放って 光 暴れだした

まぶた開け放って

その眼でなにもみるな

ただいま、ひさしぶりだね

原風景"

 

この歌詞から、物質としての人間を捨て、心だけでつながろうとする人間の光景が立ち上がってくる。

それはちょうど、エヴァンゲリオンの劇場版「Air/まごころを、君へ」の終盤で人類補完計画が実行されるシーンのよう。全ての人間の肉体が液体に還元され、その魂がリリンの卵へ取り込まれるシーン。

<さよなら、物質>という歌詞がその光景を象徴している。

 

精神としての人間のありようを描くだけならここで終わるのがふさわしいのだけど、このアルバムのタイトルは「こんにちは、物質」だ。

 

最後の曲である「八月」では、これまでの曲とは反対に、物質としての人間を強く意識させられる光景が描かれる。

 

"誰かが死にかけている時

きみは生きる喜びにある"

 

"朝 走る車をぎりぎりで

ひらりとかわす"

 

誰かの肉体が朽ちていくときに、自分の肉体のみずみずしさを強く実感する。

走る車をかわすのは精神としてのあなたではなく肉体としてのあなただ。

 

そしてこの曲のラストは冒頭で述べたあの歌詞で締めくくられる。

 

愛も正しさも一切君には関係ない

君は息をしている

 

愛や正しさといった人間の精神活動が生み出したものは、あなたという人間存在を根拠づけるものではない。呼吸、生きているということ自体があなたの存在を肯定している。

 

精神の領域で行われる活動ばかりが重要視され、本来私たちの存在を根拠づけているはずの肉体がないがしろにされている現代、そのつかみどころのない膜を音もなく切り裂くきれいな言葉だと思う。 

 

「さようなら、こんにちは」を含めた1~9曲目が全体として、<さよなら、物質>と歌う曲なら、「八月」は<こんにちは、物質>と歌う曲である。それはそのままアルバムタイトルの「Ave Materia」へつながる。

 

 

と、ここまでがこのアルバムを聴いて、歌詞を読んだ感想なのだけど、あくまでも全体を一つの側面から切り取った一部に過ぎない。

全体から部分を取り出して、それをテコにして全体を説明するとなんとなくすっきりするけど、それは全体を説明したことにはならない。

このアルバムにはまだまだたくさんの切り口があるような気がしてならない。「八月」のアウトロの違和感もそのうちの一つのはずだ。