和牛「オネェと合コン」にみるコント漫才の新しい形④
④「オネェと合コンの分析」
※文章全体を見直して、より分かりやすくなるよう改訂しました。(2019/11/23)
ここまでの話を踏まえて、いよいよ本題に入ります。まずはネタをご覧ください。
何回見てもおもしろい。最高。
初めにネタの概要と類型について説明をします。
全体で10分と長尺のネタで、最初の2分が導入となっています。「オネェにすげえモテるから芸能界にいるオネェ芸能人に迫られたら困る」と言うボケの水田に、話を合わせていくツッコミの川西。話はそのまま「オネェと2対2の飲み会になって、そのまま迫られたときにどう断るか」という話につながっていきます。コント漫才のお手本のような展開です。そして1分57秒からボケが唐突に「オネェ」役を始めて本編が開始。ツッコミはオネェに迫られる水田、ではなくオネェ(ローズ)を演じ始めたボケに対してツッコミを入れます。が、そのすぐ後にボケがツッコミにオネェ(ヒヤシンス)をやることを要求。10秒ほどの逡巡の後、ツッコミ役もいやいやオネェ役を始めてからが本編がスタート。途中から合コン相手である水田、川西が登場し、二人はオネェ役と和牛役の一人二役を演じながらネタは続きます。
このネタの類型については、設定と現実を行き来するタイプのコント漫才なのか、設定の中で展開していくタイプのコント漫才なのかという問題があります。ネタの途中から合コン相手として和牛本人たちが出てくるので、オネェ=設定、和牛=現実という捉え方ができなくもないです。しかし、合コン相手として出てくる和牛はあくまでも「オネェと合コンする和牛」という役割を与えられているため、素の二人ではないと言えると思います。この違いは導入部分で掛け合いをしている二人を「素の和牛」と捉えるとより明確になるでしょう。よって、私の考えではこのネタは設定の中で展開していくタイプのコント漫才です。
今後、この「素の和牛」と「オネェと合コンする和牛」を区別するため、役割のない現実の状態にいる二人を、「素の川西」、「素の水田」と表記し、設定の中にいる(オネェと合コンしている)二人を「和牛の川西」「和牛の水田」と表記して話を進めます。
ネタの大まかな流れ、ネタの構造についての説明は以上です。
さて本題。このネタの新しさについて。
結論から言いますと、このネタの新しさは「ツッコミによる設定の拒否」にあります。
従来のコント漫才はツッコミとボケが役割を受け入れることが大前提です。設定を受け入れ、与えられた役割を演じ、ボケが発生したときに現実に戻って修正を加える。サンドイッチマンのようなネタにおいても、ボケとツッコミは与えられた役割のみを演じてはいますが、ボケとツッコミという役割は明確にあります。和牛自身も普段はサンドイッチマンのような設定の中にとどまって展開させていくネタが多いです。賞レースでもこの型の漫才、例えば「彼女とドライブ」や「お祭りデート」、をやっているあたり、彼らの得意な漫才の形なのかもしれません。
しかし、このネタにおいては、素の水田だけが進んでローズ役になることを受け入れ、素の川西はヒヤシンスという役割を演じることに戸惑いを感じています。それによって、素の川西はヒヤシンスにもなりきれず、かといって素の川西であることもできない中途半端な存在として舞台にいることになります。これが従来のコント漫才と決定的に異なる点です。
この状態を図で表すと下記のようになります。
素の川西による設定の拒否と戸惑いは、従来のコント漫才とどのような展開の違いを見せていくのでしょうか。いくつかのシーンを抜粋して説明していきたいと思います。
まずは2分31秒からの「ローズとヒヤシンスが和牛水田、川西の好きなところを教えあうシーン」。
ローズが和牛の登場に興奮する一方でヒヤシンスはまだ自分の役割を受け入れられずにいます。ローズが和牛水田の好きなところに言及した後で、「ヒヤシンスは川西さんのどこが好き?」と話を展開させます。
ここで素の川西はさらに困惑します。なぜかというと、彼はまだヒヤシンスになりきれていないため、ヒヤシンス視点ではなく素の川西視点で和牛の川西を褒めるような恰好になってしまうからです。
完全にヒヤシンス役に徹することができれば、ここで和牛川西の好きなところを言ってもそれはただの会話として成立するでしょう。
しかし、役になりきれない素の川西は、そのなりきれなさから和牛川西と同一人物であると観客側では認識されています。そのような状態にある彼がヒヤシンスとして和牛川西の好きなところを口に出しても、それは素の川西が和牛川西を褒める、つまり自分で自分を褒める気まずさが発生します。
観客は素の川西がヒヤシンス役になりきれず困惑していることを了解しているため、ネタが展開していく上で素の川西が、ヒヤシンスと和牛川西の間に挟まれて窮地に追いやられることが想像できます。だからこそ笑いが起きるのです。
この「自分で自分を褒める気まずさ」から起こる笑いを和牛は狙ってやっているでしょう。ローズの「なんでそんなこと(川西の手の血管が浮き上がっている)知ってるの」や「あなたやたら(川西のこと)詳しいわね」という発言は、素の川西がヒヤシンスになりきれていない、つまり和牛川西と同一人物であることを暗に示し、素の川西の中途半端な状態を浮き彫りにするものになっているからです。
一方で、素の水田は設定を受け入れ、ローズとして和牛水田を褒めているため上記のような困惑は生じず、観客から笑いはあまり起こりません。
このことから、素の川西の、自分の中途半端な状態に対すると戸惑いを笑いにつなげようとしていることが分かります。
次は、「ヒヤシンスと和牛川西の会話シーン」。個人的にこのネタの特徴が活かされた最大の見せ場であると思います。
ローズがお手洗いに行ったことでヒヤシンスが一人になってしまい、和牛川西と二人きりでの会話が始まります(なお、話の筋としては、ローズのみがトイレに行っているので水田は会話の場にいなければならないのですが、ここではいないことになっています。)
素の川西はヒヤシンス、和牛川西の二役を演じるわけですが、彼はこの設定を受け入れられず、半ば恥ずかしがりながら一人二役を演じています。このシーンにおいて、観客の笑いのポイントは、「ヒヤシンスと川西の会話のぎこちなさ」にあるのではなく、「無理やり役割を与えられた素の川西が気まずそうに、恥ずかしそうに一人二役をやっている様子」にあります。その証拠に大きい笑いが起こっているのは、ヒヤシンスから川西への切り替え場面や、会話が尽き、ヒヤシンスがローズの助けを待つ場面です。ヒヤシンス役はおろか和牛川西役を孤独にやらなければならなくなった素の川西の困惑は増幅し、観客は彼の困惑を見て笑います。
さらにローズが化粧ポーチを忘れてトイレに戻ろうとするときの場面に注目。ヒヤシンスは必死にローズを食い止めて言います。「もう耐えられないから!」これは、ヒヤシンス視点の「川西との二人きりと言う状況に耐えられない」という意味と、素の川西視点の「一人二役での会話をこれ以上続けることに耐えられない」という意味が両方合わさっていると言えるでしょう。だからこそ大きな笑いが起こっているのです。
ここまで見てきた通り、このネタは「ツッコミが与えられた役割を全うせず、役と本人の狭間で困惑する状況」から笑いがうまれています。ここに役割を受け入れ、設定と現実を都合に応じて渡り歩く従来のコント漫才とは決定的な違いがあるのです。
では、「オネェと合コン」においてうまれている笑いは、「裏切り」によるものなのか「共感」によるものなのか?私は「共感」によるものであると考えます。これはツッコミの舞台上での立ち振る舞いを見て行けば説明できると思います。
ツッコミはネタ冒頭における設定の拒否、困惑に長い時間を使っています。ローズに突如変身したボケに対して冷ややかなツッコミを入れ、ヒヤシンス役を振られてから10秒ほど間を空けています。この一連の行動があることによって、観客は「ボケの強引な行動に困惑し、振り回されるツッコミ」というこの漫才におけるツッコミのキャラクターを了解し、そのような視点で後に続く漫才を見ていくことになります。そして、そのキャラが直面したら困りそうな出来事を実際に起こしていく。起こった出来事に困惑するツッコミを見るたびに観客は「そりゃこうなるよな」と共感して笑うのです。これは第一節に共感の笑いの説明で述べた、おっちょこちょいな友人が実際におっちょこちょいなことをしてしまうエピソードと似た構図です。このことから、冒頭の振る舞いは共感の笑いをうみだすために必要な行動だったと言えます。
このように、裏切りによる笑いがほとんどなく、共感で笑いを取っているということもこの漫才の新しさであると思います。ただし、これが「ツッコミによる設定の拒否」という新しい漫才の構造によるものとは言い切れないというのが本当のところです。ただ、彼らが新しいスタイルのコント漫才をやり、笑わせ方も従来の漫才ではありえなかったものであるということは確かだと思います。
まとめ
①「オネェと合コン」におけるツッコミは設定を受容できない存在。設定と現実の混同した中途半端な存在でいることへの困惑に、観客が共感することで笑いをうみだしている。
②従来のコント漫才は設定を受容し、裏切りと共感を織り交ぜながら笑いを取ってきたが、「オネェと合コン」においては設定を拒否し、笑いのテコがほとんど共感によるものである。
以上、私の和牛の一押しネタを考察してみました。質問やご指摘あったらぜひお願いします。
それでは。
和牛「オネェと合コン」にみるコント漫才の新しい形③
③コント漫才とは何か
前節では笑いの構造と漫才におけるボケとツッコミの役割について言及しました。
ここからはコント漫才の説明を前節で紹介したしゃべくり漫才と比較しながらやっていきたいと思います。分析にあたって、サンキュータツオさんというお笑い芸人兼学者という異様な経歴を持つ方のブログを参考にさせていただきました。
コント漫才は、私たちが最近最もよく見る漫才のスタイルかもしれません。王道と呼ばれるしゃべくり漫才と違い、ネタの冒頭でシチュエーション設定、役割分担があったうえでネタが展開していくコントと漫才の折衷案のようなスタイルです。
説明の例としてトータルテンボスの「けんかの仲裁」というネタを取り上げます。
「けんかの仲裁に憧れている」と言うボケの大村さんに対して、ツッコミの藤田さんが「架空の人間ともめるから仲裁に入ってくれ」と反応します。そこからボケが「けんかの仲裁人」、ツッコミが「けんかをしている人」という役割を与えられて本編開始です。
ネタを見ればわかる通り、コント漫才における笑いが起こる仕組みも基本的にはしゃべくり漫才と同じです。しかし、しゃべくり漫才が「コミュニケーションの中で予想される展開からのずれ、裏切り」をテコに笑いをうみだすことが多いのに対し、コント漫才は「与えられた設定から予想される展開からのずれ、裏切り」をテコにすることが多いのが両者の違いです。
一方、コント漫才のネタの展開の仕方は、しゃべくり漫才のそれとは大きく異なる点があります。それはボケとツッコミが設定と現実を行き来していること。先ほど紹介したネタにおいては、二人は最初設定の通りに話を展開させ、自分の役割を全うします。そして、ボケが発生すると、ツッコミがボケのズレを指摘して、再びネタを展開させます。この「ズレの指摘とネタの再展開」の段階において二人は与えられた役割を放棄し、現実に戻っているのです。設定がそもそも必要ないしゃべくり漫才にはない「設定と現実の行き来」。これがネタの展開のさせ方を大きく変えている要因です。
なお、観客に視点はしゃべくり漫才と変わらずツッコミ側にあります。先ほど述べた通り笑いがうまれる構造自体はしゃべくり漫才と変わらないからです。
しゃべくり漫才とコント漫才のネタ展開比較を図にするとこんな感じ。
コント漫才における、ボケ・ツッコミ・観客の関係性を図にするとこんな感じ。
ただし、このコント漫才には派生形が存在します。その登場は2008年のM-1グランプリでサンドイッチマンが披露した「アンケート」というネタであると、サンキュータツオさんは言っています。
こちらが言及されているネタです。
(1時間24分50秒あたりから)
彼はおぎやはぎの「結婚詐欺師」というネタと、サンドイッチマンのネタを比較してこう述べます。
(おぎやはぎのネタを踏まえて)
漫才は、普段の二人の役柄に、さらに話題のなかでの設定を加えることもできるので、二重構造性を備えているのだ(正確には「ボケ役」「ツッコミ役」も役柄なので、素の語り手を入れると三重構造をなすともいる)。
しかし、サンドウィッチマンにいたって、このルールは無視された。それはたまたまかもしれない。もともとコントをやっていた二人だから成しえた方法かもしれない。サンドウィッチマンは、一度設定に入ると、二度と「修正と提案」をすべく設定を解除する方法をとらず、最後まで「設定のなかの役柄としての会話」が続く。
従来のコント漫才が、話題の中での設定とボケとツッコミという2つの役割を行き来しながら展開する一方で、サンドイッチマンのコントは設定の中の役柄にボケとツッコミという役割が含まれているため、役割の行き来がなくなっている。これが、サンキュータツオさんが述べる新しいコント漫才の形です。なお、このスタイルにすることによる具体的なメリットはこの記事の範疇をこえるので、詳しくは彼のブログ及び書籍で。
サンドウィッチマンがM-1でしたこと | サンキュータツオ教授の優雅な生活
第三節まとめ
①コント漫才はネタの冒頭で設定を提示し、話を展開させ、設定から予想される展開を
裏切ることによって笑いをうみだしている。
②ボケとツッコミは基本的に与えられた役割と現実を行き来する。
③現実に戻るタイミングはボケに対するツッコミが起こったとき。
第四節に続く
和牛「オネェと合コン」にみるコント漫才の新しい形②
②なぜ人は漫才で笑うのか-ボケとツッコミの役割-
第一節では、笑いには裏切りによるものと共感によるものがあると述べました。
ここまで話を踏まえて、漫才はどのようにして人を笑わせているのか、笑わせるためにボケとツッコミはどのような役割を担っているのかについて考えていきます。
まずはこちらの動画をご覧ください。M-1グランプリ2016で優勝した銀シャリの「ドレミの歌」というネタです。
(45分27秒から)
「ドレミの歌には一貫性がない、一貫性のあるドレミの歌をやりたい」という鰻さんのフリから始まるこの漫才。M-1優勝ネタだけあってかなり面白いです。
それでは、実際に笑いが起きたシーンを分析してみます。
冒頭でボケの鰻さんが「ドーはドーナッツのツー」というボケをかましています。これは「ドーはドーナッツのドー」という私たちが知っているドレミの歌の歌詞からのズレです。そこにツッコミの橋本さんが「まちごうてるやん」とツッコむ。ここで笑いがうまれています。このシーンにおいて観客(私たち)は、ボケが現実(世間一般の常識)とズレたことをいい(①で述べた裏切りのこと)、ツッコミがそのズレを修正するという過程を見て笑っています。これは続く「ファに続く単語をファイヤーと間違えてしまう」シーン、「しどろもどろをシドレミドレと言ってしまうシーン」などでも同じことが言えます。
次に、ドレミの歌を楽器で統一すればいいじゃないかと鰻さんが始めるシーン。「ドーはドラームのドー、レーはレ!?」とレに続く楽器が出てこないというボケをかまし、橋本さんがツッコむ。ここでは、「ドレミの歌を楽器で統一すると言っていたから、楽器縛りでドレミの歌を作っていくのだろう」という観客(私たち)の予想を裏切り、それにツッコミが入ることで笑いがうまれています。このことは「ファッション縛りでドレミの歌を作る」シーンなどでも言えますね。
以上のことを鑑みると、他にもいろいろな笑いがうまれるパターンがあると思いますが、基本的に漫才において笑いがうまれる理由は①現実、予想からのズレや裏切り②それらの指摘や修正によって共感をうみだす、であると言えると思います。第一節で説明した通りのことを漫才はやっているわけです。ただし、裏切り、共感のどちらがより笑いにつながっているかどうかは、コンビごと、ネタごとに濃淡があると思います。ありすぎて類型化はかなり難しいと思います。
先ほど例に挙げたネタでは、ボケ自体でも笑いが起こっていますが、言いえて妙なツッコミをした後の笑いの方が大きな笑いになっていますから、共感がより笑いに貢献していると言えるかもしれません。
この構造の中で、ボケは「常識・予想からのずれ、裏切りをうみだす」役割を持ち、ツッコミは「それらの指摘・修正を共感がうまれるように行う」という役割を持っています。また、ボケは常に演者側に立っていますが、ツッコミは、「ボケのおかしなところを観客に説明する」という役割の都合上、演者と観客をつなぐ橋渡しとして存在していると言えます。
ここまで述べた、しゃべくり漫才におけるボケ・ツッコミ・観客の関係性を図にするとこんな感じ。
第二節まとめ
①漫才の笑いをうみだす構造は、基本的に、ⅰ現実、予想に対するズレや裏切りⅱそれ
らの指摘、修正によって共感をうみだすである
②ボケは常に演者側にいる存在だが、ツッコミは演者と観客をつなぐ役割を担ってい
る。
第三節に続く
和牛「オネェと合コン」にみるコント漫才の新しい形①
Youtubeでとりとめもなく動画を見続けることが皆さんにもあると思います。最近はYoutuberが職業になるくらいですから、気に入りの動画が一つや二つあるかもしれません。私もご多分に漏れず、無限に出てくるお笑いの動画なんかを惰性でついつい見ちゃいます。
最近気に入っているのはお笑いコンビ「和牛」の漫才。水田信二さんによる理屈をこねまわすようなボケに川西賢志郎さんが巻き込まれるような形でツッコミをするコント漫才が特徴のコンビで、M-1グランプリ2年連続準優勝とかなりの実力派です。タイトルにある「オネェと合コン」というコント漫才も彼らのネタの一つです。
今回の記事は私の「『オネェと合コン』のネタの構造なんか新しくね?そしておもしれええええ」という驚きを端に発しています。このネタはいつもの彼らのネタだけでなく従来のコント漫才とからも大きくかけ離れた構造を持っているのです。その新しさを文章にしたいと思いパソコンの前に向かっている次第でございます。
最初はこのコント漫才が従来のコント漫才とどう違うのか、それがどのように笑いにつながっているのかだけを書こうと思ったのですが、書いていくうちに、そもそもなんで人は笑うんだ?漫才はどのように人を笑わせているんだ?と疑問がどんどん膨らんでいったので、その辺も含めて考えたり参考資料漁ったりしているうちに結構な長さになってしまいました。冗長かもしれませんが気長にお付き合いいただければと思います。
以下が目次です。
目次
①なぜ人は笑うのか
②なぜ人は漫才で笑うのか-ボケとツッコミの役割-
④「オネェと合コン」の分析
①なぜ人は笑うのか
はい、冒頭に述べました通り、めちゃめちゃ原理的な話から始めます。私たちは普段何か面白いことがあると笑いますよね。そこに理由などなく、ただ面白いから笑うという人がほとんどだと思います。
本当にそうなのでしょうか?人が笑うのに理由はないのでしょうか?
実は、厳密ではないですが人が笑う理由はすでにある程度分析されています。例えば、群像2月号に掲載されているいとうせいこうさんとバカリズム(升野英知)さんのトークショー、「今夜、笑いの数を数えましょう」において、お二人は、笑いがうまれるきっかけを「裏切りと共感」という言葉で端的に表しています。
裏切りで起こる笑いについてお二人はこう述べています。
いとう:バナナがあって滑って転んだらおかしい。いや全然おかしくない。でもこれが偉そうにしている人が転んだらおかしいとか、いろいろ古い説があるじゃん。
升野:バナナがあって滑ってというのは、今の時代僕らにはフリになってしまう。
いとう:違うことを考えるためのね。
升野:バナナを踏んで滑ってウケることはあるけど、それがみんなの イメージとして定着してるから、さらにそれを裏切ることでの笑いも出てくる。裏切りは大きいですよね。
いとう:意外性っていうことだよね……(中略)。
升野:で、こういう話をしたら意外性自体がフリになっちゃうから、バナナの皮を踏んで滑らないことももう笑いにならなくなっちゃう。
彼らは私たちが持っている「バナナの皮があってそれで滑ったらおもしろい」という既におもしろみを失った常識を裏切ることで笑いがうまれる(例えばバナナの皮を踏んでも滑らない)と述べています。
もう少しかみ砕くと、「世間一般の常識や大多数の人の予想、これを裏切るような現象が起こった時、人は笑う」ということです。
次に共感で起こる笑いについての言及。
いとう:……(中略)つまり、うまいこと思い出させると人は笑うよね。ツッコミもそうなんだよ。さっきのインカ帝国もそうなんだけど、絵が下手だからさ(と、ホワイトボードに何かの顔を描き出す)、なんかこう、頬骨が……あ、
升野:アンパンマンになってますよね(笑)
会場:爆笑。
いとう:いやいやいや……。でも今、「アンパンマン」って言ったときに、人は笑ったでしょ。記憶の中から、何か的確なものを……あ、僕のイメージはね、長―い髪の毛を脳から抜く感覚なんだけど、これが上手だと人は笑うんだよ。それはつまり、何かを思い出させると人は快感で笑うんじゃないかと思っているわけ。
升野:あー、なるほど。
いとう:似顔絵がおかしいことと、ダジャレがギリギリ成立することもこれに関係していると思うんだ。
升野:今、アンパンマンの件で笑ったのは、まず丸を描いて、頬骨描いて、目を転々と打った時点で、ここにいる全員がこの顔「アンパンマンっぽい」ってまず思ったと思うんですよ。で、そこで「アンパンマン」って言ったことによって、「だよねー」の共感の笑いだと思うんです。みんなが「あれ?あれ?あれ?」って思っていたものが一気に解放された笑いが一個ある。
いとうさんが「アンパンマンっぽい」ものが描いていく中で、升野さんがそれを「アンパンマンですよね」と指摘することで笑いが起こる。この現象をもう少し抽象化すると、自分の想像や、考えていたことをだれかに言い当てられることによって笑いが起こる、ということです。
他の例を挙げると、バラエティ番組で芸人がしゃべったあるあるネタに私たちが笑うことあると思います。その理由は、芸人が話した出来事に近しいことを私たちも経験しており、その時の出来事や感情がうまく表現されているからであると言えますよね。
また、おっちょこちょいでいつも忘れ物をしてしまうような友人が、「銀行口座を開くために出かけたら印鑑持っていくのを忘れて取りに帰って再び家を出たら、今度は身分証明書を忘れて取りに戻り、また出たら今度はカギをかけたかどうか忘れて不安になって戻る、みたいなことをやっているうちに銀行窓口が終わってしまった」というエピソードを話してきたら笑う確率は高いと思います(こんな奴いるわけねーだろ、いやエピソードつまらんというツッコミはしてはいけない)。
これは、おっちょこちょいの友人という私たちの認識から想像される彼の失敗が実際に起こったことによる笑いです。この場合、失敗がおっちょこちょいの友人という共通認識を説明、つまり指摘するものとして機能し、アンパンマンの例に似た笑いが起こるのです。
お二人の話を拡張しながら書きましたが、このように、「自分の想像通りのことや経験したことが、言い当てられたり、目の前で再現されたりしたときにおこる笑い」は共感の笑いであると言えます。
第一節まとめ
①人の笑いには、裏切りによる笑いと共感による笑いがある。
②裏切りによる笑いは、世間一般の常識や大多数の人の予想、これを裏切るような現象によって起こる笑いのこと。
③共感による笑いは、自分の想像通りのことや経験したことが、言い当てられたり、目の前で再現されたりしたときにおこる笑いのこと。
第二節に続く